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No.12イギリス串木野・羽島鹿児島・天保山の台場跡

薩摩はイギリスの艦隊と砲火を交え、二年後にそのイギリスへ留学生を送った

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INTRODUCTION ・ はじめのひとこと

文久三年(1863年)、薩摩藩は鹿児島の湾で、イギリスの艦隊と砲火を交えました。

それから二年もたたないうちに、薩摩は留学生の一行をイギリスへ送ります。

送ることを言い出したのは、その戦いでイギリスの艦に捕らえられた藩士、五代友厚ごだいともあつでした。

In 1863, the third year of Bunkyuu, the Satsuma domain exchanged fire with a British squadron in the bay of Kagoshima.

Less than two years later, Satsuma sent a party of students to Britain.

The man who proposed it was Godai Tomoatsu, a Satsuma retainer who had been taken prisoner aboard a British ship in that very battle.

戦いは、「正午、天保山臺場より火蓋を切り」、天保山てんぽうざんの台場から砲撃を始めた、と『鹿児島県史』は書いています。

『鹿児島県史』は、戦いの結果をこう書いています。

砲台はよく戦ったが、「裝備と編制との不完全なるため完勝を博するに至らず」、損害も小さくなかった、と。

当時、江戸の老中は薩摩の留守居るすい、江戸にいた連絡役を呼んで「戰勝を慶し」、戦いに勝ったことを祝っています。

戦いのあと、藩の中心の人たちのあいだに、ある考えが起こります。

「無謀の攘夷は却かえつて國家を危くする」。むやみに外国を打ち払えば、かえって国を危うくする、と。

そしてイギリスとの和平の話が起こりました。

五代友厚は、留学生を送るよう、藩に意見を出します。

「藩は五代の意見を容いれて留學生派遣の議を決し」。藩は五代の意見を容いれ、留学生を送ると決めた、と。

慶応元年(1865年)、一行はイギリスへ向けて発ちます。

「當時、一行は公然渡航するを得ず」。表立って国を出ることはできず、一行は名前を変えて旅立ちました。

留学生の一人、森有礼もりありのりは、のちに伊藤博文の内閣で文部大臣になっています。

RECORDS ・ 記録の言葉

この話のもとになった記録の言葉です。ページは、その本に刷られたものです。

鹿児島県編『鹿児島県史』第3巻(鹿児島県、昭和15〜16年)

大日本人名辞書刊行会編『大日本人名辞書』下巻(大正15年)

FOR GUIDES ・ ガイドのかたへ

PDF の後半 2 ページはガイド用です。読み上げる台本、語り方のコツ、事柄ごとに「どこまで言い切ってよいか」、記録の言葉と原本の切り出しが載っています。お客様用の面の裏に来ないよう、両面印刷で組んであります。

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