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No.15ロシア道後温泉

日露戦争のロシア兵の捕虜は、松山に収容され、道後温泉に入った

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INTRODUCTION ・ はじめのひとこと

この道後温泉に、日露戦争のころ、ロシア兵の捕虜が入りに来ていました。

捕虜を収容していたのは、松山の収容所です。

その収容所自身がまとめた記録が、いまも残っています。

Here at Dougo Onsen, at the time of the Russo-Japanese War, Russian prisoners of war came to bathe.

They were held at the prisoner-of-war camp in Matsuyama.

A record that the camp itself compiled still survives.

Сюда, в онсэн Дого, во времена Русско-японской войны приходили купаться русские военнопленные.

Их содержали в лагере для военнопленных в Мацуяме.

До сих пор сохранилась запись, которую составил сам этот лагерь.

明治三十七年(1904年)の七月、ロシア兵の捕虜を収容していたのは、松山の一か所だけでした。

収容された捕虜は、あわせて将校七百八十八人、下士と兵卒五千百二十二人にのぼります。

陸軍の記録『俘虜取扱顛末ふりょとりあつかいてんまつ』は、こう書いています。

政府は初めから、取締りに差し支えない限り監督を寛大にして、捕虜の苦しみを軽くしようとした、と。

松山の収容所の所長も、こう書いています。

「人道ヲ重ンスル吾人ごじんハ彼等ヲ嚴待スルニ忍ヒス」。人の道を重んじる自分たちは、彼らを厳しく扱うに忍びなかった、と。

そして「非常ニ寛大ナル待遇ニ傾キタリ」、とても寛大な扱いに傾いた、とも書いています。

明治三十八年(1905年)三月、陸軍省は規則を出し、誓いを立てた捕虜の将校に、監視なしで歩くことを許しました。

松山では、その年の四月から、誓約書に署名したロシアの将校が、監視なしで外を歩けるようになりました。

捕虜たちは、道後温泉に入るのを好みました。夏には高浜や三津浜みつはまへ出て、海水浴もしています。

港町みなとまちと呼ばれていた町は、捕虜相手の商売で店構えが変わり、市民はそこを「露西亞町」と呼ぶようになりました。

同じ記録には、別の面も書かれています。

所長はロシアの将校について、「殆ほとんト恩義ノ何物タルヲ解セサルカ如シ」、恩義というものをほとんど解さないようだ、と書きました。

多少の衝突もあった、と書いています。

商人の中には、相場一円ほどの木綿の単衣ひとえを、捕虜に二円五十銭から三円二十銭で売る者もいました。

RECORDS ・ 記録の言葉

この話のもとになった記録の言葉です。ページは、その本に刷られたものです。

松山俘虜収容所編『松山収容露国俘虜』(松山俘虜収容所、明治39年2月)一次史料

陸軍大臣官房編『明治三十七八年戦役俘虜取扱顛末』(明治40年)一次史料

FOR GUIDES ・ ガイドのかたへ

PDF の後半 2 ページはガイド用です。読み上げる台本、語り方のコツ、事柄ごとに「どこまで言い切ってよいか」、記録の言葉と原本の切り出しが載っています。お客様用の面の裏に来ないよう、両面印刷で組んであります。

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