No.22タイアユタヤ(タイ)

アユタヤの日本人町 — 人数の記録が食い違っている

PDF は準備中です
最終確認前この話は、印刷用の PDF を準備しています。文はこのページで読めます。
INTRODUCTION ・ はじめのひとこと

シャムと呼ばれていたころの、いまのタイです。

その都アユタヤに、日本人の町がありました。

そこに何人が住んでいたのか。

一つの記録のなかで、数が食い違っています。

This is Siam, as the country was called then — the country you now call Thailand.

In its capital, Ayutthaya, there was a Japanese quarter.

How many people lived there?

Within a single record, the figures do not agree.

ที่นี่คือประเทศไทยในปัจจุบัน ในสมัยที่ยังเรียกกันว่าสยาม

ที่กรุงศรีอยุธยาซึ่งเป็นราชธานี เคยมีชุมชนชาวญี่ปุ่นอยู่

มีคนอาศัยอยู่ที่นั่นกี่คน

ในบันทึกฉบับเดียวกัน ตัวเลขกลับไม่ตรงกัน

英国の外交官アーネスト・サトウが、この町を調べています。

その考証は宮内省から日本語で刊行されました。

サトウはこう書きました。

「アユヂ井アニ移住シ一時ハ七百人(一說ニ七千人)ノ多キニ達セリ」。

アユタヤに移り住み、一時は七百人、一説には七千人にのぼった、と。

七百。七千。

同じ一行のなかに、二つの数が並んでいます。

この数は、いまも決まっていません。

サトウは他にも細かい照合をしています。

たとえば、日本の記録に出てくる「六昆」という国。

これはリゴール、いまのマレー半島の一地方で、シャムの人はラクホンと呼ぶ土地だと書いています。

山田長政という日本人が、王朝の高官になったと伝えられます。

ただし渡った時期については、史料どうしが食い違ったままです。

RECORDS ・ 記録の言葉

この話のもとになった記録の言葉です。ページは、その本に刷られたものです。

山田長政 - Wikipedia(ja)

  • 長政のシャムへの渡航時期については確定していない/尾張出身説をとる『山田仁左衛門渡唐録』では元和の初め、巳午の年(1617・1618年)に駿府の商人・瀧佐右衛門と太田次郎右衛門の朱印船に便乗して台湾に向かったとしている/他方『天竺徳兵衛物語』は武蔵国で罪を犯したため長崎へ逃亡し、そこからシャム行きの船に乗ったとしている
    「生涯」節(2026年9月26日閲覧)
  • ソンタム王の死後、王位を狙う貴族・オークヤー・カラホムと対立。リゴール長官として地方に派遣されパタニ王国と戦ったが、王位に即いたカラホムの息の掛かった者に毒殺されたという。
    冒頭(2026年9月26日閲覧)

日本町・山田長政 - 世界史の窓

  • 16世紀から17世紀初め、東南アジア各地には多数の日本人が商業活動に従事し、日本町という居住地を造っていた。タイのアユタヤ朝の都アユタヤには1500人以上の日本人が住んでいて日本町が栄えていた。
    「日本町」(2026年9月26日閲覧)

アーネスト・サトウ『山田長政事蹟合考』(原名『第十七世紀中日本暹羅交通考』/寺崎遜訳・宮内省・明治28年)

FOR GUIDES ・ ガイドのかたへ

PDF の後半 2 ページはガイド用です。読み上げる台本、語り方のコツ、事柄ごとに「どこまで言い切ってよいか」、記録の言葉と原本の切り出しが載っています。お客様用の面の裏に来ないよう、両面印刷で組んであります。

リストに保存