No.24フランス常林寺(袋井市浅羽)

日本の政府はチャウを国外に退去させ、チャウは支えてくれた日本人の碑を建てた

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INTRODUCTION ・ はじめのひとこと

ここ常林寺じょうりんじの境内に、1918年、ベトナムの独立運動家ファン・ボイ・チャウが、石碑を建てました。

チャウは、日本へベトナムの若者を送り出す運動を組織した人です。

その運動は、資金が尽き、フランスの求めを受け入れた日本の政府がチャウを国外に退去させて、崩れていきます。

Here, in the grounds of Jorinji temple, in 1918, the Vietnamese independence activist Phan Boi Chau set up a stone monument.

Chau was the man who organized a movement to send young Vietnamese to Japan.

The movement ran out of money, and it fell apart when the Japanese government, accepting France's demands, deported Chau.

Ici, dans l'enceinte du temple Jōrin-ji, en 1918, le militant vietnamien de l'indépendance Phan Bội Châu a érigé une stèle.

Châu est celui qui avait organisé un mouvement pour envoyer de jeunes Vietnamiens au Japon.

Le mouvement manqua d'argent, et il s'effondra lorsque le gouvernement japonais, acceptant les demandes de la France, expulsa Châu.

チャウは、植民地支配から抜け出すための闘いとして、「東遊運動とうゆううんどう」を組織しました。

日本にベトナムの留学生を送り出し、人材を育てる運動です。

1905年の春、チャウは日本に渡ります。

けれども、日本に軍事の援助を求めるのは無理だと知りました。

そこで目的を人材の養成に変え、ベトナムの青年たちに日本への留学を呼びかけます。

1907年六月、日本とフランスが日仏協約を結ぶと、情勢は一変しました。

1908年、フランス領インドシナの当局が運動に気づき、ベトナムにいる家族を捕らえます。

資金は尽き、留学生たちは次々に日本を離れていきました。

同じ年、日本政府はフランスの求めを受け入れ、ベトナム人の学生に解散を命じます。

資金に困っていたチャウたちを救ったのが、浅羽佐喜太郎あさばさきたろうでした。1,700円を出したのです。

それでも1909年一月、日本政府はフランスの求めで、チャウを国外に退去させました。運動は崩れます。

1918年、日本を訪れたチャウは、浅羽の生まれ故郷のこの村を訪ね、この境内に碑を建てました。

チャウを国外に退去させたのは日本の政府、チャウを支えたのは一人の日本の医師でした。

RECORDS ・ 記録の言葉

この話のもとになった記録の言葉です。ページは、その本に刷られたものです。

宮沢千尋「書評 白石昌也著『ベトナム民族運動と日本・アジア』」『東南アジア―歴史と文化―』23号(1994年)

  • 植民地支配脱却の闘争のため日本にベトナム人留学生を送りだし,人材を養成することを目的とした「東遊運動」を提唱・組織した
    p.125
  • チャウは渡日直後に日本に軍事援助を求めることが不可能であることを知り,滞日の目的を「人材の養成」・「民智の啓発」・民族運動組織の「堅固な基礎」作りに変更し,ベトナム青年たちに日本留学を呼びかけ
    p.126
  • 1908年に仏印当局がこの運動の存在に気づいて,ベトナム国内の父兄を逮捕すると活動資金は不足し,留日青年たちも動揺して次々と離日,日本政府も仏側の要請によって調査を開始し,1909年1月にチャウを国外退去させ,運動は瓦解する。
    p.127

書評「白石昌也著『日本をめざしたベトナムの英雄と皇子』」『東南アジア―歴史と文化―』42号(2013年)

  • 日仏協約を背景に東遊運動が撤収させられたのち
    p.104

白石昌也「明治末期の在日ベトナム人とアジア諸民族連携の試み」『東南アジア研究』20巻3号(京都大学東南アジア研究センター、1982年)

  • 日仏協約が締結されて(1907年6月)外交情勢が一変していたので,フランス政府は日本に対して,在日ベトナム人に関する要求を出す。日本当局もこれを受け容れ,/1908年陰暦九月になると,日本政府はベトナム人学生の解散命令を出した。
    p.339
  • この窮状を救ってくれたのが浅羽佐喜太郎である。彼から1,700円の資金の提供を受けると,チャウはこれを三分して,それぞれ外交費,印刷費,生活費にあてた。
    p.340

白石昌也「国立公文書館所蔵『越南亡国史』をめぐって」『北の丸―国立公文書館報―』51号(2019年)

  • 一九一八年に日本を一次訪問した際に、そのことを知ると浅羽医師の生まれ故郷である静岡県浅羽村(現在は袋井市の一部)を訪問し、彼を顕彰する石碑を常林寺境内に建立した
    p.17
FOR GUIDES ・ ガイドのかたへ

PDF の後半 2 ページはガイド用です。読み上げる台本、語り方のコツ、事柄ごとに「どこまで言い切ってよいか」、記録の言葉と原本の切り出しが載っています。お客様用の面の裏に来ないよう、両面印刷で組んであります。

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