ガイドネタ帳 › 場所から › 首都圏 › No.104 アメリカ

ヒュースケンは、赤羽接遇所から善福寺の公使館へ帰る途中で襲われた

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はじめのひとこと

この善福寺ぜんぷくじの境内に、アメリカの公使館が置かれていました。

そこから毎日のように馬で出かけていたヒュースケンは、ある夜、帰る途中で襲われます。

どこで、誰に襲われたのかは、記録によって違います。

The American legation once stood in the grounds of this temple, Zenpukuji.

Heusken, who rode out from here almost every day, was attacked one night on his way back.

Where, and by whom, differs from record to record.

ヒュースケンが通っていたのは、赤羽接遇所あかばねせつぐうしょです。

そこはプロイセンの公使の宿所で、話し合いの場でもありました。

ヒュースケンは、麻布からそこへ毎日のように馬で通っていた、と『新修港区史』は書いています。

イギリス公使オールコックは、ヒュースケンはプロイセン公使館からの帰りに、刺客の一団に待ち伏せされた、と書いています。

港区の文化財の目録は、善福寺へ帰る途中、一団の浪士に襲われた、と書いています。

どちらも、帰る途中のことです。

襲われた場所を、永井荷風の随筆は「薪河岸まきがし」、大川周明の『清河八郎』は「麻布古川端」と書いています。

『清河八郎』は、斬ったのは薩摩藩の伊牟田尚平いむたしょうへいや樋渡八兵衛ひわたしはちべえらだ、とも書いています。

日本側の年表『増訂武江年表』も、アメリカの公使館を麻布の善福寺と書いています。

記録の言葉

この話のもとになった記録の言葉です。ページは、その本に刷られたものです。

斎藤月岑編・朝倉亀三校『増訂武江年表』(国書刊行会、大正元年)一次史料

  • 異國人旅宿は、麻布善福寺亞米利加、赤羽接遇所フルエス、高繩東禪寺芝西應寺英吉利、三田大增寺濟海寺月岬正覺寺佛蘭西、伊皿子長應寺阿蘭陀、三田大中寺魯西亞等なり

Rutherford Alcock『The Capital of the Tycoon』Vol. II(London: Longman, 1863)一次史料

  • He had been waylaid on his return from the Prussian Legation by a band of assassins, and mortally wounded.
    p.39

永井荷風「墓畔の梅」『勲章』(扶桑書房、昭和22年)

  • ヒュースケンは後に米國の公使館が九段下から麻布善福寺の境内に移されてから、一夜芝赤羽橋外異人接遇所から馬でかへる道すがら、薪河岸で日本の刺客數人に襲はれ重傷を負ひ、善福寺境内の公使館に入ると間もなく息を引取つた

港区立郷土歴史館「ヒュースケン墓」(港区文化財総合目録)

  • 12月5日午後9時頃、善福寺へ帰る途中、一団の浪士に襲撃され、刀で腹部を深く切られて落馬
    2026年9月26日閲覧

港区『新修港区史』(デジタル版 港区のあゆみ)

  • 毎日のように麻布からプロシア公使の宿所であり協議の会場でもあった赤羽接遇所に馬で通っていた
    2026年9月26日閲覧

大川周明『清河八郎』(行地社出版部、昭和2年)

  • 此年の十二月五日、八郞の同志として莫逆の間柄となれる薩藩の伊牟田尙平・樋渡八兵衛等が、米國公使館通譯ヒュースケンを麻布古川端に斬るに至つて
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