ガイドネタ帳 › 場所から › 首都圏 › No.106 シンガポール

音吉は日本へ帰れず、中国で日本人の漂流民を引き取った

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はじめのひとこと

この浦賀うらがの沖まで、音吉たち日本人六人を乗せた船が来ていました。

けれども浦賀から大砲を撃たれ、薩摩へ回っても撃たれて、船は引き返しました。

音吉は日本へ帰れないまま、のちに中国で、流れ着いた日本人を助けています。

A ship carrying six Japanese, Otokichi among them, once came as far as the waters off Uraga here.

But it was fired on from Uraga, and fired on again when it went round to Satsuma, and it turned back.

Otokichi never got home, and later, in China, he helped Japanese castaways who had drifted there.

このことを書き留めたのは、嘉永のころに中国へ流れ着いた、日本人の漂流民です。

帰り着いた十二人が役人に語った口書くちがきが、残っています。

口書は、先に中国にいた日本人として、「尾州の人音吉久吉岩吉の三人」の名を挙げています。

そして、三人から聞いた話を書いています。

六人を「イギリス船」に乗せて日本へ送ることになり、浦賀の沖まで来た。

けれども浦賀から石火矢いしびや、大砲を撃ちかけられ、薩摩へ回っても撃たれて、近寄れなかった、と。

音吉は、十二人を自分の家に連れて行き、帰れるよう、いろいろと掛け合ってくれた、と口書は書いています。

けれども、相手の外国人は聞き入れなかった、と。

音吉はその後シンガポールに住み、日本へ帰れないまま亡くなった、と美浜町などは伝えています。

イギリスに帰化し、日本とイギリスの交渉で通訳を務めた、とも伝えられています。

記録の言葉

この話のもとになった記録の言葉です。ページは、その本に刷られたものです。

『播州人米國漂流始末』(石井研堂編『異国漂流奇譚集』、福永書店、昭和2年 所収)一次史料

  • 尾州の人音吉久吉岩吉の三人、己前漂流して當國に渡り居り
  • 都合六人をイギリス船に乘せ、日本へ送り吳い由にて、相州浦賀沖へ参りい處、浦賀より石火矢を打ち懸けられ…薩摩へ廻りい處、又い石火矢打かけ、寄付く事相叶はず
  • 私ども拾貳人は音吉自分宅へ連れ行き吳れれ儀にて御座い/音吉、又い色々掛合致し吳れい得共、異人聞入やさず

齋藤宏一「開国への扉を外から叩いた男—幕末の漂流民、音吉」『Ocean Newsletter』第328号(笹川平和財団海洋政策研究所、2014年)

  • 晩年音吉はシンガポールを定住の地として、日本人として初の英国への帰化をし
    2026年9月26日閲覧
  • 英国スターリング艦隊で来日した音吉は、英国の通訳として日英和親条約の締結(1854年(安政1)年)に尽くした
    2026年9月26日閲覧
  • 晩年音吉はシンガポールを定住の地として/1867年1月18日、49才の短い生涯を終えたのである
    2026年9月26日閲覧

愛知県美浜町「にっぽん音吉漂流の記」(美浜町公式サイト)

  • とくに安政元年(1854年)にスターリング艦隊とともに長崎へ来たときには日英和親条約の締結交渉に力を尽くし
    2026年9月26日閲覧
  • こうして音吉は日本のことを考えながら慶応3年(1867年)、明治維新の前年にシンガポールで亡くなりました
    2026年9月26日閲覧
  • 故山本音吉氏(または乙吉。英語名ジョン・M・オトソン)
    2026年9月26日閲覧
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