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No.11イギリス日本橋平戸逸見の安針塚(横須賀)

イギリス人の航海長ウィリアム・アダムスは、家康から江戸の屋敷と逸見へみの知行ちぎょうを与えられた

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INTRODUCTION ・ はじめのひとこと

1600年、一隻のオランダの船が、豊後ぶんごに流れ着きました。

その船の航海長は、イギリス人でした。名前は、ウィリアム・アダムスです。

やがて彼は徳川家康から、江戸に屋敷の土地を、逸見へみに知行ちぎょう、治める土地を与えられます。

In 1600, a Dutch ship drifted ashore in Bungo, in Kyushu.

Her pilot was an Englishman. His name was William Adams.

In time, Tokugawa Ieyasu gave him land for a house in Edo, and an estate at Hemi.

船の名は、リーフデ号です。

関ヶ原の戦いの少し前、アダムスは大坂城で家康に会いました。

家康はアダムスに、浦賀に近い逸見へみの地で、二百五十石の知行ちぎょうを与えます。

江戸の日本橋には、屋敷の土地を与えました。

『徳川初期の海外貿易家』という本は、その暮らしを「宛然えんぜん旗本御家人の生活をなす」と書いています。

まるで旗本や御家人のような暮らしだった、と。

アダムスは、外国とのやりとりの仲立ちもしました。

イギリス国王の書状が幕府に届いたとき、その文面は「南蠻なんばん字」、西洋の文字で書かれていました。

そこで幕府は「アンジニ假名ニカヽセ」、按針あんじんに仮名で書かせています。

按針は、アダムスの日本での名です。

イギリス商館長のリチャード・コックスは、本社への手紙にこう書きました。

多くの日本の大名が部屋の外で待たされるなか、アダムスは自由に部屋に入って、将軍と話した、と。

アダムスが亡くなったのは1620年、平戸でした。

横須賀の逸見には、アダムス夫妻の墓があります。

けれどもアダムスは平戸で亡くなったので、記念碑と見るべきものだ、と歴史家の幸田成友は書いています。

RECORDS ・ 記録の言葉

この話のもとになった記録の言葉です。ページは、その本に刷られたものです。

徳川初期の海外貿易家

幸田成友『日欧通交史』(岩波書店、1942年)

FOR GUIDES ・ ガイドのかたへ

PDF の後半 2 ページはガイド用です。読み上げる台本、語り方のコツ、事柄ごとに「どこまで言い切ってよいか」、記録の言葉と原本の切り出しが載っています。お客様用の面の裏に来ないよう、両面印刷で組んであります。

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