No.33アメリカ美浜町小野浦(愛知)

音吉 — 尾張の小野浦おのうらから流された少年と、日本語に訳されたヨハネ伝

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INTRODUCTION ・ はじめのひとこと

尾張おわりの小野浦おのうらから、米と塩と陶器を積んだ船が出ました。嵐で太平洋へ流されます。1832年のことと伝えられています。

生きて陸に着いたのは三人でした。乗っていたのは十四人だったと伝えられています。

そのうちの一人が音吉おときち。十四歳だったと伝えられています。

着いた先は、いまのワシントン州の海岸だったと伝えられています。

A ship loaded with rice, salt and pottery left Onoura in Owari, and was blown out into the Pacific by a storm. The year is said to have been 1832.

Three of them reached land alive. The crew is said to have numbered fourteen.

One of them was Otokichi, said to have been fourteen years old.

The shore they reached is said to have been in what is now Washington State.

その三人は、英国を経てマカオへ送られました。

そこで、宣教師ギュツラフの仕事を手伝うことになります。

聖書のヨハネ伝を、日本語に訳す仕事でした。

作業は一年に足りません。1835年の暮れから、翌年の11月までです。

訳したものは1837年、シンガポールで木の版に彫って刷られました。

その原本は今も残っていて、明治学院大学の図書館にあります。

本文は全部カタカナです。

その書き出しは、こうです。

「ハジマリニ カシコイモノゴザル」

はじめに、かしこいものがござる。

神の言葉にあたる語を、三人は自分たちの村の言葉で言い当てるしかありませんでした。

やがて、彼らを乗せた船が日本へ向かいます。日本側の記録は、六人が乗っていたと書いています。

浦賀うらがで大砲を撃たれ、薩摩さつまへ回ってそこでも撃たれ、引き返しました。

音吉は帰れませんでした。

のちに、日本人の漂流者十二人が中国へ流れ着きます。

音吉は十二人を自分の家に引き取り、帰国できるよう掛け合いました。

このことが分かるのは、帰り着いた十二人が役人に語った書きつけが残っているからです。

音吉自身は、日本の土を踏まないまま生涯を終えたと伝えられています。

RECORDS ・ 記録の言葉

この話のもとになった記録の言葉です。ページは、その本に刷られたものです。

『約翰福音之傳』明治学院大学図書館蔵本(表紙)一次史料

  • at the press of the A.B.C.F.M. in Singapore about 1839 or 1840
    表紙
  • translated by Rev. Dr. Gutzlaff with the assistance of a shipwrecked Japanese
    表紙

『約翰福音之傳』明治学院大学図書館蔵本(内題・刊記)一次史料

  • 新嘉坡 堅夏書院藏板 / 善德纂
    第3丁(内題)

『約翰福音之傳』明治学院大学図書館蔵本(本文冒頭)一次史料

  • ハジマリニ カシコイモノゴザル・コノカシコイモノ ゴクラクトモニゴザル
    第5丁

『播州人米國漂流始末』(帰朝者が地方官へ提出した口書/『異国漂流奇譚集』福永書店 所収)一次史料

The Letters of John McLoughlin from Fort Vancouver to the Governor and Committee: First Series, 1825-38 (1941)一次史料

  • A Japanese junk was wrecked last winter in the vicinity of Cape Flattery and out of the crew of fourteen men only three were saved and redeemed from the Indians by Captain McNeill on his voyage this Summer to Fort Langley.
    p.128
  • by these men going to Great Britain they would have an opportunity of being instructed and convey to their countrymen a respectable idea of the grandeur and power of the British nation
    p.128

明治学院大学図書館 聖書和訳デジタルアーカイブス 書誌(1837johgutz2)

  • 資料名 約翰福音之傳 翻訳者 Karl F.A. Gutzlaff(善徳纂) 発行者 新嘉坡 堅夏書院
    書誌(2026年9月26日閲覧)

日本聖書協会「和訳史03 現存する最初の日本語聖書」

  • 1837(天保8)年、シンガポールで木版刷りで印刷されたものである
    2026年9月26日閲覧
  • 3人の日本人漂流船員(岩吉、久吉、音吉)の助けを借りて、マカオで翻訳され
    2026年9月26日閲覧

松本隆「1837年刊『約翰福音之傳』にみる邦訳者ギュツラフの日本語理解」清泉女子大学キリスト教文化研究所年報 第28巻(2020)

  • 1837 年にシンガポールで刊行された
    p.52
  • 邦訳者ギュツラフはマカオの地で日本人漂流民 3 名の助けを借りながら『約翰福音之傳』と『約翰上中下書』の訳業に取り組んだ(秋山2008:292)
    p.52
  • ギュツラフの日本語学習と邦訳を助けた 3 名の漂流民は,尾張小野浦(知多半島南端付近)の出身で,その地域性が邦訳に反映されている(彦坂1987)
    p.52
  • その期間は 1835 年の暮れから翌 36 年 11 月までのわずか 1 年にも満たない(秋山2008:292)
    p.52
  • 彼らは太平洋を漂い米国に流れ着き,その後英国をへて 1835 年 12 月にマカオに送られ,ギュツラフのもとに預けられた
    p.53
  • ギュツラフと日本人漂流民 3 名は,彼らの共通語である英語で意思疎通を図り,英語の欽定訳を底本の 1 つにしたと考えられる(浜島2006b)
    p.53

齋藤宏一「開国への扉を外から叩いた男—幕末の漂流民、音吉」Ocean Newsletter 第328号(笹川平和財団 海洋政策研究所, 2014-04-05)

  • 晩年音吉はシンガポールを定住の地として、日本人として初の英国への帰化をし
    2026年9月26日閲覧
  • 英国スターリング艦隊で来日した音吉は、英国の通訳として日英和親条約の締結(1854年(安政1)年)に尽くした
    2026年9月26日閲覧
  • 晩年音吉はシンガポールを定住の地として/1867年1月18日、49才の短い生涯を終えたのである
    2026年9月26日閲覧
  • 1832(天保3)年、1500石船宝順丸が尾州小野浦(現、愛知県知多郡美浜町)から、米や塩、陶器を積んで江戸に向かって出港。乗組員14名の中に14歳の音吉も乗っていた。不運にも遠州灘で嵐にあい太平洋を漂流し、1年2カ月に渡る船上での苦闘の末、生き残った音吉、久吉、岩吉の3名は米国ワシントン州、ケープアラバへ漂着した。
    「小野浦を出港、嵐で遭難」(2026年9月26日閲覧)

愛知県美浜町「にっぽん音吉漂流の記」

  • とくに安政元年(1854年)にスターリング艦隊とともに長崎へ来たときには日英和親条約の締結交渉に力を尽くし
    2026年9月26日閲覧
  • こうして音吉は日本のことを考えながら慶応3年(1867年)、明治維新の前年にシンガポールで亡くなりました
    2026年9月26日閲覧
  • 故山本音吉氏(または乙吉。英語名ジョン・M・オトソン)
    2026年9月26日閲覧
  • 1832年宝順丸という千石船に乗り江戸へ向かう途中嵐に遭い、太平洋を1年2か月も漂流した後アメリカ西海岸へ漂着。
    2026年9月26日閲覧
FOR GUIDES ・ ガイドのかたへ

PDF の後半 2 ページはガイド用です。読み上げる台本、語り方のコツ、事柄ごとに「どこまで言い切ってよいか」、記録の言葉と原本の切り出しが載っています。お客様用の面の裏に来ないよう、両面印刷で組んであります。

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