1890年、一隻の軍艦が、日本の南の海で沈みました。
海に投げ出された者は540人。生きて岸に上がったのは69人です。
その船がどこの国のものか、初めは分かりませんでした。
In 1890 a warship went down in the sea off southern Japan.
Five hundred and forty men were thrown into the water. Sixty-nine reached the shore alive.
At first no one knew what country the ship belonged to.
في عام 1890 غرقت سفينة حربية في البحر جنوبيّ اليابان.
أُلقي في الماء خمسمئة وأربعون رجلاً، ونجا إلى الشاطئ تسعة وستون.
ولم يُعرف في أوّل الأمر إلى أيّ بلد تنتمي السفينة.
9月16日の夜でした。
エルトグルル号は、熊野灘に差しかかっていました。
午後10時半頃、全艦が沈みました。
海に投げ出された者は540人。
そのうち69人が、岸辺に泳ぎつきました。
樫野崎の灯台に、傷だらけの外国人が一人、また一人と入ってきました。
十人になりました。
灯台の人たちは手当てをして、事情を尋ねました。
けれども、言葉が通じません。
そこで技師の瀧澤正淨が、万国信号ブックを持ち出しました。
船が海の上で意思を伝えるための、記号の本です。
それを見せて、ようやく分かりました。
土耳其の軍艦である、と。
翌朝、大島村長の沖周が駆けつけました。
生存者は大龍寺と樫野小学校に運ばれ、村の医者三人が治療にあたりました。
69人のうち、無傷だったのは6人だけです。
このとき村人がしたことを、記録はこう書いています。
「大島村民は各戶その貯ふるところの甘藷と飼ふところの鷄を」。
各家が、蓄えていたサツマイモを出し、飼っていた鶏を出しました。
島の村の、貯えです。
村人は眠らずに海を捜し、260人の遺体を収容しました。
10月5日、日本の軍艦二隻が品川を出て、生存者をイスタンブルまで送り届けました。
It was the night of September 16th.
The Ertuğrul had come up to the Kumano Sea.
At about half past ten the whole ship went down.
Five hundred and forty men were thrown into the sea.
Sixty-nine of them swam to the shore.
At the lighthouse on Kashinozaki, a wounded foreigner came through the door, then another.
Ten of them in all.
The lighthouse men treated them and tried to ask what had happened.
But they had no language in common.
So an engineer named Takizawa Masakiyo brought out the International Code of Signals.
It is the book of symbols by which ships make themselves understood at sea.
He showed it to them, and at last it was clear.
This was a warship of Turkey.
The next morning the village headman, Oki Amane, came at a run.
The survivors were carried to Dairyuuji temple and to the Kashino primary school, and three village doctors treated them.
Of the sixty-nine, only six were unhurt.
What the villagers did then, the record puts like this:
"The people of Ooshima village, from every house, the sweet potatoes they had stored and the chickens they kept —"
Every household gave up its stored sweet potatoes and its chickens.
An island village, and this was its store.
The villagers searched the sea without sleeping and recovered two hundred and sixty bodies.
On October 5th two Japanese warships left Shinagawa and carried the survivors home to Istanbul.
كانت ليلة السادس عشر من سبتمبر.
كانت السفينة قد بلغت بحر كومانو.
وفي نحو العاشرة والنصف مساءً غرقت السفينة كلّها.
أُلقي في الماء خمسمئة وأربعون رجلاً.
ومنهم تسعة وستون سبحوا إلى الشاطئ.
وإلى منارة كاشينوزاكي دخل أجنبيّ جريح، ثم آخر.
حتى صاروا عشرة.
عالجهم أهل المنارة وسألوهم عن أمرهم.
غير أنّ اللغة لم تجمع بينهم.
فأحضر المهندس تاكيزاوا ماساكيو كتاب الإشارات الدوليّ.
وهو كتاب رموز تتفاهم به السفن في عرض البحر.
وبه عرفوا أخيراً.
أنّها سفينة حربية تركيّة.
وفي صباح اليوم التالي جاء مسرعاً عمدة قرية أوشيما، أوكي أمانيه.
نُقل الناجون إلى معبد دايريوجي ومدرسة كاشينو الابتدائية، وعالجهم ثلاثة من أطباء القرية.
ومن التسعة والستين لم يسلم من الجراح إلا ستة.
وما فعله أهل القرية يقوله السجلّ هكذا:
"أهل قرية أوشيما، كلّ بيت منهم، ما ادّخره من البطاطا الحلوة وما ربّاه من الدجاج …"
أخرج كلّ بيت ما ادّخره من البطاطا الحلوة، وما ربّاه من الدجاج.
قرية في جزيرة، وذلك كان مدّخرها.
وبحث أهل القرية في البحر بلا نوم، فانتشلوا مئتين وستين جثماناً.
وفي الخامس من أكتوبر أبحرت سفينتان حربيّتان يابانيّتان من شيناغاوا، فأوصلتا الناجين إلى إسطنبول.
この話のもとになった記録の言葉です。ページは、その本に刷られたものです。
国会会議録(第102回国会 参議院外務委員会 昭和60年4月3日/衆議院内閣委員会 3月28日ほか)一次史料
トルコ航空が我が方からの要請を受けて特別に一台大型機を増便するという形になりまして、これに日本人を優先的に乗せるという話が出てまいりました(政府委員 谷田正躬・1985-04-03 参議院外務委員会)/トルコは、日本の野村大使からの要請にこたえまして、早速特別機を出してくれまして、在留トルコ人に先立って邦人を送ってくれたわけであります(外務大臣 安倍晋太郎・1985-03-28 衆議院内閣委員会)
特別機を出したというのは、それも日本のために出したというのはトルコ航空だけでありまして、これはやはりトルコと日本のこれまで積み重ねた外交の成果であったと思いますね(1985-04-03 参議院外務委員会)/これは日本とトルコの伝統的なやはり長い友好関係というものが結実といいますか、そういう人道的な、何といいますか特別機の救援というところに結びついたんじゃないか(同)
エルトゥールル号遭難事件 - Wikipedia(ja)
215名の日本人はこれに分乗し、全員トルコに救出され、やがて日本へ帰国できた
野村元大使自身が語ったところによれば、同氏は「フセインの言うタイムリミットの前日の18日夕方」に、ビルセル大使(当時の駐イラン・トルコ大使)から、「明日、トルコ航空機が2機来る。空席があるから日本人の搭乗希望者数を教えてほしい」という電話を受けた
沖村長は郡役所と和歌山県庁に使者を派遣し、村に居住する3人の医師とともに午前11時30分頃に現場に到着し、村民を大動員して生存者の探索と負傷者の救済を行った
日本とトルコの絆をつないだ物語 - 串本町
取り残された日本人215名。 そのとき、トルコから駆けつけた救援機2機により、全員がイランを脱出。
後に駐日トルコ大使のネジアティ・ウトカン氏は当時、次のように語られました。「エルトゥールル号の事故に際して、日本人がなしてくださった献身的な救助活動を、今もトルコの人たちは忘れていません。
この遭難に際し、当時の大島島民は不眠不休で生存者の救助、介護、また殉難者の遺体捜索、引き上げにあたり
『土耳其國軍艦エルトグルル號 日土親善永久の記念』(駐日土耳其國大使館・昭和12年)
言語は通せず、加ふるに、頭腦が混亂してゐたので、說明を聽取することが困難であつた。やがて、技師瀧澤正淨氏は萬國信號ブツクを示し、これによつて漸く土耳其國軍艦なることを知るを得たのであつた。
やがて、二人また三人、踵を接するもの十名に及んだ
九月十七日朝、大島村長沖周氏變を聞いて馳せ至り、樫野、須江兩區長と協力して生存者の救護に努めた。生存者はこれを夫々大龍寺及び樫野小學校に收容せしめ、大島村村醫小林健齋、伊達一郞、杉下秀諸氏を督して治療に當らしめた。
大島村民は各戶その貯ふるところの甘藷と飼ふところの鷄を
避難の將卒六十九名中、健全なるもの六名、重傷者九名、他は多く輕傷であつた
遺骸を搜索するために全村民は不眠不休の奔走をしたのであるが……かくて近海から二百六十名の死體を收容した。
兩艦は明治廿三年十月五日品川灣を發し、神戶港に入つて遭難士卒を分乘せしめ、イスタンブルに向つて航行したのである。
この遭難でオスマン提督以下漂溺せる者は五百四十名であつた/生存者六十九名、內士官六名は岸邊に泳ぎつき
明治廿三年九月十六日火曜、エルトグルル號は熊野灘に差しかかつた。……遂に十時半頃には全艦悉く覆沒してしまつたのである。
PDF の後半 2 ページはガイド用です。読み上げる台本、語り方のコツ、事柄ごとに「どこまで言い切ってよいか」、記録の言葉と原本の切り出しが載っています。お客様用の面の裏に来ないよう、両面印刷で組んであります。