ガイドネタ帳 › 場所から › 首都圏 › No.89 外国人共通

明治九年、東京府は浅草の公園を「最モ可厭之景狀もっともいとうべきのけいじょう」と内務卿に書いた

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はじめのひとこと

お客様がいま立っているこの浅草寺のあたりは、明治のはじめ、東京府が公園の地と定めた場所でした。

明治九年(1876年)、その東京府が、内務卿ないむきょうの大久保利通に、ここの様子を書き送っています。

浅草はますます人が混み合い、静かで趣のある場所は一つもない、と。

The area around Sensoji, where you are standing, was set aside as a park by the Tokyo prefecture in the early Meiji years.

In 1876, the ninth year of Meiji, the prefecture wrote to Okubo Toshimichi, the Home Minister, about how it looked here.

Asakusa, it said, was more crowded than ever, without a single quiet, graceful spot.

明治九年十一月の伺うかがいで、東京府はまず、こう書いています。

明治六年(1873年)に公園の地を決めたときは、図面の朱しゅの点のとおりに、仮に定めただけだった。

名所を残すというだけの考えで、長く手入れをして保つ見通しは無かった。

そのため、公園はどこも次第に荒れていった、と。

浅草については、「益ますます雜沓鄙野ざっとうひやヲ極メ、一モ閑雅かんがノ地ナク」と書いています。

ますます人が混み合って俗っぽくなり、静かで趣のある場所は一つもない、という意味です。

そして「最モ可厭之景狀いとうべきのけいじょうニ立至リ候」、最もいとわしい様子になっている、と続けます。

そこで東京府は、公園の区域を、図面の朱の線のとおりに広げたいと願い出ました。

あわせて、近くの国の土地を十か年のあいだ公園の附属地にしたい、とも書いています。

その借地料で、上野を除く四か所の公園の費用をまかなう、という考えでした。

明治九年十二月五日、大久保利通は、この伺いのとおり聞き届けました。

記録の言葉

この話のもとになった記録の言葉です。ページは、その本に刷られたものです。

東京市編『東京市史稿 遊園篇第四』(東京市、昭和7年)

  • 淺草公園地之義、明治六年一月第十六號公布ニ付、府下公園ノ箇所取調之節、假リニ圖面朱點之通リ相定候得共、畢竟確定之モノニ無之、且當時之趣意ニテハ唯名勝之地ヲ存置スル迄ニ止リ、依之經營維持ヲ永遠ニ期スル見据ニハ無之
  • 故ニ各公園トモ漸々草蕪荒穢ニ屬シ、今日ニ於テハ啻ニ名實徑庭スルノミナラス、淺草ノ如キハ益雜沓鄙野ヲ極メ、一モ閑雅ノ地ナク最モ可厭之景狀ニ立至リ候
  • 府下上野ヲ除ク之外、四箇之公園維持之方法ハ、固ヨリ容易ニアラスト雖モ/依之更ニ圖面朱線之通區域ヲ擴メ、加ルニ近傍官地之內薄紅色之地ヲ以來十年ヨリ先キ十ケ年間公園附屬地トナシ、期限內ノ所得借地料。ヲ謀リ、四箇公園ノ經營費ニ相充度
  • 明治九年十一月十八日東京府權知事楠本正隆內務卿大久保利通殿/書面淺草公園地區域取擴、並公園附屬地之義共、伺之通聞屆候事。明治九年十二月五日內務卿大久保利通
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