ガイドネタ帳 › 場所から › 首都圏 › No.94 外国人共通

幕府に禁じられた江戸の勧進相撲は、深川の八幡宮の境内で再び許された

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はじめのひとこと

お客様がいま立っているこの富岡八幡宮の境内で、江戸時代、幕府に禁じられていた相撲の興行が、再び許されました。

貞享元年(1684年)のことです。

境内には、明治に建てられた横綱の碑も立っています。

Here in the grounds of Tomioka Hachimangu, where you are standing, sumo shows that the shogunate had banned were allowed again in the Edo period.

That was in 1684, the first year of Jokyo.

In the grounds there also stands a monument to the yokozuna, put up in the Meiji era.

江東区深川江戸資料館は、江戸の勧進かんじん相撲の初めは、寛永元年(1624年)の四谷での興行と伝えられる、と書いています。

けれども勝ち負けをめぐって、たびたび喧嘩けんかや口論が起きました。

幕府は慶安元年(1648年)から、くり返し禁じた、と資料館は書いています。

『増訂武江年表』は、そのあと、たびたび願っても聞き届けられなかった、と書きます。

そして貞享元年(1684年)の八月、寺社奉行じしゃぶぎょうに願って許しが出ました。

「深川八幡宮」の境内で「始て興行す」、初めて興行した、と。

資料館は、この深川八幡を富岡八幡宮のこととし、ここで再び勧進相撲が許された、と書いています。

許された理由として、資料館は三つを挙げ、「考えられます」と書いています。

深川の町を盛んにすること、江戸の治安、そして火事で焼けた社殿の建て直しです。

その後も、この八幡宮では定期的に興行が行われました。

のちに相撲の場は、両国の回向院えこういんへ移っていきます。

天保四年(1833年)からは、回向院が江戸の定場所になった、と資料館は書いています。

境内には、明治三十三年(1900年)に建てられた横綱力士碑があります。

横綱の陣幕久五郎じんまくきゅうごろうが呼びかけて建てたものです。

協賛した人には伊藤博文や李鴻章りこうしょうの名もある、と資料館は書いています。

陣幕は、いま数えられている横綱の代数を考え出した人だ、とも書いています。

記録の言葉

この話のもとになった記録の言葉です。ページは、その本に刷られたものです。

斎藤月岑編・朝倉亀三校『増訂武江年表』(国書刊行会、大正元年)一次史料

  • 相撲興行の日數、昔は晴天八日成しが、今年三月二十八日より、深川八幡宮/において興行ありしより、十日と成し由我衣に見えたり
  • 後度々願候へ共御聞濟無之の處、貞享元年八月、寺社奉行本多淡路守殿へ相願、勸進寄相撲御免被仰付候に付、深川八幡宮/にて始て興行す

江東区深川江戸資料館「資料館ノート 第103号 大相撲の歴史と深川① 富岡八幡宮と大相撲の石碑」(江東区深川江戸資料館、平成26年)

  • 江戸の町では勧進相撲がしばしば喧嘩闘争の場となるほど荒れることがあったため、江戸時代初期には幕府から禁止されていました。
    p.1
  • ところが貞享元年(1684)、雷権太夫らが富岡八幡宮境内での勧進相撲を寺社奉行へ願い出たところ許可が下りました。
    p.1
  • その理由は、新開地であった深川地域の繁栄と、富岡八幡宮社殿の復興を目的としていたといわれています。
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  • 以後、公許の勧進相撲が恒例化され、その形が整えられていきます。
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  • (3)横綱力士碑、明治33年(1900)/本碑は、横綱の顕彰と歴史を伝えるため、陣幕久五郎(第12代横綱)が発起人となり各界の協賛を得て奉納したものです。/建碑の協賛者には、伊藤博文、山県有朋、西郷従道、徳川家達、李鴻章、9代目市川団十郎・5代目尾上菊五郎/まで300名を超える賛助を得ました。
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江東区深川江戸資料館「資料館ノート 第106号 大相撲の歴史と深川④ 深川地域と勧進相撲」(江東区深川江戸資料館、平成26年)

  • 江戸勧進相撲の初めは、寛永元年(1624)四谷塩町長善寺(通称、笹寺)境内での明石志賀之助の晴天六日の興行と伝えられます。
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  • そこでは勝敗等をめぐってしばしば喧嘩口論が起こり、幕府は慶安元年(1648)より繰り返し禁止令を出しました。
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  • ところが、貞享元年(1684)富岡八幡宮(深川八幡、別当の永代寺)において再び勧進相撲が許可されました。
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  • それまで禁止されていた勧進相撲がこのとき許可された理由は、当時の社会状況から次の3つの要因が考えられます。/1つは、深川地域の振興策との関わりです。/2つ目は、江戸の治安対策です。/3つ目は、富岡八幡宮の社殿復興です。勧進相撲が再興される前の天和2年(1682)に社殿を火災で焼失しており、「勧進」の名目の通り、社殿の復興を目的としていたと考えられます。
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  • その後も富岡八幡宮では定期的に興行が行われ、のちの代表的興行地となる回向院よりも多く行われました。回向院では、明和5年(1768)に初めて大規模な相撲興行が開催されます。/以降、回向院での興行が徐々に増え、天保4年からは江戸の定場所となります。
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  • 当初、勧進相撲は深川地域を拠点として行われていましたが、江戸時代の終わりころには江戸を代表する盛り場となった本所地域の成立や、興行の安定化により回向院へと移っていきました。
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江東区深川江戸資料館「資料館ノート 第107号 大相撲の歴史と深川⑤ 陣幕久五郎と横綱力士碑の建立」(江東区深川江戸資料館、平成27年)

  • なお、本碑は江東区指定有形文化財(歴史資料)です。/陣幕の大きな功績として、現在数えられている横綱の代数を考案したことがあります。
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