ガイドネタ帳 › 場所から › 首都圏 › No.103 外国人共通

明治七年、公園をどう保つかを、町人と府知事がそれぞれ書いた

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はじめのひとこと

いま立っているこの場所の山の名が、明治七年(1874年)、東京府知事が公園の保ち方を伺い出た書面に挙げられています。

その少し前には、町人の二人も、公園をどう保つかの見込書みこみしょを出していました。

公園を、どうやって手入れし続けるか、という話です。

The mountain name of the place where you are standing appears in a request the governor of Tokyo sent in 1874, the seventh year of Meiji, about how to keep the parks.

A little earlier, two townsmen had also sent in their own proposal on the same question.

It is a story of how to keep a park cared for over the years.

明治七年五月、西村勝三と田畑謙藏は、東京府知事に見込書を出しました。

公園は、これまで評議はあったが、まだできていない、と書いています。

修繕の費用の出どころが無くては、一時は整えても、続けられない。

たとえば公園の地が五万坪あるなら、三万坪を公園にして、草木や石をすべて眺めのために整える。

酒店や茶店のような乱雑なものは置かず、休む所として、すっきりした建物を建てる。

残りの二万坪を貸して、その地代で修繕の費用をまかなう、という案でした。

同じ年の十一月、東京府知事は、公園の経営と取締りについての伺書うかがいしょを、内務卿に出します。

三縁山、東叡山、金龍山のような場所は、有志に年を限って土地を貸し、草木を植えさせてはどうか。

そうすれば風景が一変し、汚れもせず、取締りも立つだろう、と。

公園という名で都合が悪いなら、花園か遊園と名付けてはどうか、とも書いています。

明治八年(1875年)二月、内務省は、公園の眺めや道の都合などを詳しく考え、精密な図を添えて伺い出直すよう指令しました。

記録の言葉

この話のもとになった記録の言葉です。ページは、その本に刷られたものです。

東京市編『東京市史稿 遊園篇第四』(東京市、昭和7年)

  • 町觸案…長ク公園ト可被定旨被仰出候ニ付、於當府下ハ左ニ記載スル/所ノ地ヲ公園ト相定候間…金龍山淺草寺 三緣山增上寺 東叡山寛永寺 富岡八幡社地 飛鳥山
  • 差向三緣山並東叡山、金龍山ノ如キ、今後有志ノ者ヲシテ年限ヲ期シ、一所每土地相住セ、漸次位置ヲ更換シ艸木類植サセ候半ハ、風景ヲ一變シ、自然不潔ニ不相成、取締モ相立可然被存
  • 且ツ公園ノ名義ニテ御不都合ニモ候ハヽ、花園或ハ遊園ノ名ヲ附シ、後年ニ至リ公園十分經營可相成節ハ、無障碍着手可相成方法ヲ設置
  • 該書面ハ十月十日太政官ニ出シ、所管換ノ爲史官ヨリ「府下公園之儀ニ付御伺出ノ處、右ハ內務省ヘ御伺出可有之、依テ別紙御伺書正副共及御返却候也」ト却下サレタルニ依ル
  • ○朱書 書面伺之趣ハ、公園ノ風致、道敷ノ都合等詳密勘辨、込ヲ立、精圖相添、更ニ可伺出事。明治八年二月十日
  • 原來修繕費用出ル處無之候テハ、一時有志ノ者取立候テモ、永續ノ方法無覺束候間
  • 假令ハ公園地五萬坪有之候ハヽ、地位ノ高卑ニ從テ增減可有之候得共、大略三萬坪ヲ公園ノ地ト相定、草木樹石都テ游觀ニ供シ候樣ニ取立、酒店茶店ノ類猥雜ノ儀ハ一切無之、休憩處トシテ雅潔ノ家屋ヲ可然場所ニ取設、遊客ノ宴息ニ供シ可申、殘リ二萬坪ヲ以テ費用出途ト仕、借地或ハ借屋等ニ致シ、右賦金ヲ以テ修繕入費ニ充テ可申候
  • 十一月十七日 公園經營及取締ニ關スル伺書ヲ始メテ內務省ニ提出ス/明治七年十一月十七日 東京府知事大久保一翁 內務卿伊藤博文殿
  • 公園之儀、是迄評議モ御座候處、未タ出來ニ至リ不申、右地所住居ノ者曖昧ト仕、不都合ノ趣相聞申候、因テ及再評候處/明治七甲戌年第五月 西村勝三・田畑謙藏 東京府知事大久保一翁殿
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