ガイドネタ帳 › 首都圏 › 上野公園 › No.59 外国人共通
No.59外国人共通上野公園

明治三年、不忍池を稲田に開く話が出ていた

PDF は準備中です
最終確認前この話は、印刷用の PDF を準備しています。文はこのページで読めます。
INTRODUCTION ・ はじめのひとこと

お客様がいま立っているこの不忍池は、明治のはじめ、田や畑に変えられるかもしれない場所でした。

明治三年(1870年)、東京府は、この池を稲田に開く見込みがあるかどうかを問い合わせています。

その計画は、ある人たちの訴えで止められた、と伝えられています。

This pond where you are standing, Shinobazu, was once in danger of being turned into rice fields and farmland.

In 1870, the third year of Meiji, the Tokyo prefecture asked whether the pond could be opened up as rice paddies.

The plan, it is said, was stopped by the appeal of a few people.

問い合わせの相手は、不忍池の弁財天べんざいてんの別当べっとう、寺の管理役の生池院でした。

生池院は、池のおよそ六万坪あまりを調べ、稲田か畑にしたい、と願い出ます。

同じ年には、池をめぐる土手、長さ五百三十間けんの場所に、桑と茶を植えたい、とも願い出ています。

そのころの政府は、東京で召し上げた屋敷の土地を、すべて桑や茶の畑に開くよう命じていました。

理由は「民產引立ひきたて之爲たメ」、人々の暮らしを立てるため、と書かれています。

のちに書かれた山本復一の伝記は、そのときのことを、こう伝えています。

東京府の役人は、上野の木を伐り、岡を削って不忍池を埋め、桑と茶の畑にすることを決め、取りかかろうとしていた。

池のほとりに住む亀谷行が、これを漏れ聞いて、岩倉具視の屋敷に駆けつけた。

岩倉具視は訴えを聞き入れ、山本復一に命じて、東京府の軽はずみを止めさせた。

こうして、府の計画は取りやめになった、と。

RECORDS ・ 記録の言葉

この話のもとになった記録の言葉です。ページは、その本に刷られたものです。

東京市編『東京市史稿 遊園篇第四』(東京市、昭和7年)

内閣官報局『法令全書』明治二年(内閣官報局、明治20〜45年刊行の版)

FOR GUIDES ・ ガイドのかたへ

PDF の後半 2 ページはガイド用です。読み上げる台本、語り方のコツ、事柄ごとに「どこまで言い切ってよいか」、記録の言葉と原本の切り出しが載っています。お客様用の面の裏に来ないよう、両面印刷で組んであります。

リストに保存