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No.60外国人共通上野公園

上野が公園に名を挙げられた三週間後、その山に窮民を養う施設が入った

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INTRODUCTION ・ はじめのひとこと

この上野の山は、明治六年(1873年)の一月、公園と定めるよう名を挙げられた場所のひとつです。

その三週間後、同じ山に、寄る辺の無い人たちを養う施設が入りました。

のちに建て替えが願い出されたとき、外国人にも相談した図面ができている、と書かれています。

This hill of Ueno was one of the places ordered to become a public park, in the first month of the sixth year of Meiji, 1873.

Three weeks later, a home for the destitute moved onto the same hill.

When rebuilding was later petitioned for, the petition said a plan had been drawn up after consulting foreigners.

始まりは、明治五年(1872年)の九月です。

東京府が、町の物乞いを救う策を尋ねました。

会議所は三つの策を出します。工場を興す。日雇いの会社を設ける。寄る辺の無い窮民きゅうみん、暮らしに困った人を引き取って養う。

三つとも聞き入れられました。

窮民の男女百四十人を、ひとまず旧加賀藩の屋敷で養います。

次いで、この山の護国院ごこくいんの堂を買い取り、手を入れて移しました。

明治六年(1873年)の二月五日。これが東京府養育院よういくいんの始まりです。

公園と定めよという太政官だじょうかんの布達ふたつは、一月十五日。その三週間後のことでした。

建坪たてつぼは、九百七十九坪あまり。

中には、病室、婦人の部屋、赤子を育てる部屋、目の見えない人の部屋、仕事場、喪の部屋などがありました。

救われたのは、みな東京府に戸籍のある窮民でした。

明治七年(1874年)の十月十七日には、同じ山の東圓院とうえんいんの境内が、そっくり養育院へ引き渡されています。

明治八年(1875年)の六月、会議所は、養育院の建て替えを願い出ました。

窮民がしだいに増え、病人も増えて、病室に空きが無い、と。

その願書に、こう書いてあります。

「外國人ノ相談ヲモ受ケ、彼我ひが折中せっちゅう適宜ノ圖面モ出來候できそうろう」。

外国人にも相談し、あちらとこちらを折り合わせた、ほどよい図面ができた、と。

熱病の部屋はほかの病室から離し、隣の等覺院とうがくいんの上げ地あげちに建てたい、とも書いています。

相談を受けた外国人が誰だったのかは、書かれていません。

その図面のとおりに建ったのかも、この記録からは分かりません。

RECORDS ・ 記録の言葉

この話のもとになった記録の言葉です。ページは、その本に刷られたものです。

『文部省第一年報』明治六年分(明治8年刊、出版者の表示なし)一次史料

東京市編『東京市史稿 遊園篇第四』(東京市、昭和7年)

FOR GUIDES ・ ガイドのかたへ

PDF の後半 2 ページはガイド用です。読み上げる台本、語り方のコツ、事柄ごとに「どこまで言い切ってよいか」、記録の言葉と原本の切り出しが載っています。お客様用の面の裏に来ないよう、両面印刷で組んであります。

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