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No.50ドイツ上野公園

ボードイン — 帰国の途中の雑談から、東叡山とうえいざんを公園にという建白が出た

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INTRODUCTION ・ はじめのひとこと

いま立っている上野の山は、明治二年(1869年)、大学病院の敷地と定められていました。

そのころ日本は、医学の手本を和蘭おらんだから独逸ドイツに替えた、と担当者の石黒忠悳いしぐろただのりがのちに語っています。

そしてこの山を公園にと建白したのは、オランダの軍医ボードインだった、とも。

The hill of Ueno where you are standing was designated in 1869, the second year of Meiji, as the site for a university hospital.

At that time, Ishiguro Tadanori, who was in charge of the site, later recalled, Japan had changed its model in medicine from Holland to Germany.

And the man who petitioned that this hill be made a park, he says, was the Dutch army doctor Baudwin.

Der Hügel von Ueno, auf dem Sie stehen, war 1869, im zweiten Jahr Meiji, als Gelände für ein Universitätskrankenhaus bestimmt.

Damals, so erzählte später Ishiguro Tadanori, der für das Gelände zuständig war, hatte Japan sein Vorbild in der Medizin von Holland auf Deutschland umgestellt.

Und der Mann, der beantragte, diesen Hügel zu einem Park zu machen, sei der niederländische Militärarzt Baudwin gewesen, sagt er.

ボードインは、旧幕府の長崎の医学校で教えていた、オランダ陸軍の一等軍医です。

帰国の途中で東京へ寄ったボードインに、石黒たちは講義を頼みました。

けれどもボードインは、容易には応じません。

三十日の講義を、ようやく承諾しました。

石黒は、その理由をこう見ています。

「其和蘭オランダヲ捨テ獨逸ドイツヲ採リタルノ理由ヲ快シトセズ」。

和蘭を捨てて独逸を採った、その理由を快く思わなかったのだ、と。

その講義の日のことです。

話がたまたま、病院を建てる件に及びました。

敷地を定め、経営に当たったのは、相良知安さがらちあん・岩佐純いわさじゅん・石黒忠悳の三人です。

石黒によれば、ボードインは敷地を検分けんぶんし、東叡山とうえいざんを公園にすべきだと太政官だじょうかんへ建白けんぱくしました。

敷地を他へ移す話には、別の事情もありました。

敷地の中にあった凌雲院りょううんいんの墓地を、改葬かいそう、移して葬り直さなければならなかったのです。

「東叡山ノ夙つとニ公園ト決シタルハ、一ニボードインノ建議ニ在リ」。石黒はそう語っています。

RECORDS ・ 記録の言葉

この話のもとになった記録の言葉です。ページは、その本に刷られたものです。

小川剣三郎編『稿本日本眼科年表』(小川剣三郎、昭和4年跋)

東京市編『東京市史稿 遊園篇第四』(東京市、昭和7年)

FOR GUIDES ・ ガイドのかたへ

PDF の後半 2 ページはガイド用です。読み上げる台本、語り方のコツ、事柄ごとに「どこまで言い切ってよいか」、記録の言葉と原本の切り出しが載っています。お客様用の面の裏に来ないよう、両面印刷で組んであります。

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