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No.67外国人共通上野公園

上野公園を一人で引き受けたいと願い出た町人の見込書みこみしょに、外国人の住む場所が出てくる

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INTRODUCTION ・ はじめのひとこと

明治七年(1874年)、この上野の山を公園に整える仕事を、一人で引き受けたいと願い出た町人がいました。

名は、榎本六兵衛えのもとろくべえです。

その見込書みこみしょ、計画の書きつけに、この山の中の「當時外國人居住之場所」が出てきます。

In 1874, the seventh year of Meiji, a townsman applied to take on, single-handed, the work of laying out this hill of Ueno as a park.

His name was Enomoto Rokubei.

His written plan mentions a "place where foreigners are at present living" on this hill.

榎本の見込書みこみしょは、公園にする土地の境を、こう書いています。

文部省の御用地のほか、「元四軒寺しけんでらと唱候となえそうろう當時外國人居住之場所」と凌雲院りょううんいんの境内を除いて、一帯を公園にしたい、と。

元は四軒寺と呼ばれた、いま外国人が住んでいる場所、という意味です。

黒門のあたりには、西洋風の石の門をかたどって建て、「公園」か「遊観場ゆうかんじょう」と書き、あわせて横文字でも書きたい、としています。

園の中の決まりは、できあがったら、欧米の国々の習わしにならって門の脇に掲げたい、とも書いています。

公園は清潔が第一で、年寄りや子ども、女性まで安心して歩けなければ、公園の意味がない。

だから、山の中の葭簀張よしずばりの掛茶屋かけぢゃやは、一時取り払ってほしい、と願っています。

東京府は内務卿ないむきょうの木戸孝允に、榎本は人柄が確かで、身元も相応の者だと届けました。

けれども明治七年の四月十七日、榎本は申し出ます。

何度考え直しても、大きな仕事で見込みが立たない。これからは、この公園地のことを願い出ない、と。

RECORDS ・ 記録の言葉

この話のもとになった記録の言葉です。ページは、その本に刷られたものです。

東京市編『東京市史稿 遊園篇第四』(東京市、昭和7年)

FOR GUIDES ・ ガイドのかたへ

PDF の後半 2 ページはガイド用です。読み上げる台本、語り方のコツ、事柄ごとに「どこまで言い切ってよいか」、記録の言葉と原本の切り出しが載っています。お客様用の面の裏に来ないよう、両面印刷で組んであります。

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