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No.68ドイツ上野公園

上野の大仏の下の外国教師館と、プロイセンから来た医学の教師

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INTRODUCTION ・ はじめのひとこと

この上野の山の、大仏の下に、「外國教師館がいこくきょうしかん」と呼ばれるものがありました。

そのころ、この山には医学校が移ってくることになっていました。

その医学校は、孛國ふこく、つまりプロイセンの政府に頼んで、医学の教師を雇っていました。

Here on the hill of Ueno, below the Great Buddha, stood what was called the "Foreign Teachers' House."

At the time, a medical school was due to move onto this hill.

That school had hired its teachers of medicine through the government of "Fukoku", that is, Prussia.

Hier auf dem Hügel von Ueno, unterhalb des Großen Buddha, stand das sogenannte „Haus der ausländischen Lehrer".

Damals sollte eine medizinische Schule auf diesen Hügel verlegt werden.

Diese Schule hatte ihre Lehrer der Medizin über die Regierung von „Fukoku" angeworben – das heißt: Preußen.

明治六年(1873年)の八月二十七日、文部省が東京府に書き送っています。

「上野大佛下外國教師館周圍しゅうい無之これなく、甚はなはだ不取締ふとりしまりニ付」。

上野の大仏の下の外国教師館には、まわりに囲いが無く、取り締まりがまったく行き届かない。

だから絵図面のとおり、竹で囲いたい、と。

東京府は九月二日に答えています。

そこは、かねて話がついているとおり、東京府に引き渡されるはずの場所だ。

それまでのあいだ囲いを設けるのは、差し支えない。

ただし、公園の施設の調べが済み次第、数か月もたたずに引き渡しを求めることもある、と。

十月には、教師館の居館を新しく建てる場所が探されています。

しかるべき場所が無く、同じ山の東にある四軒寺しけんでらの内に、一棟を建てる見込みが立ちました。

寛永寺かんえいじと打ち合わせると、少しも差し支えは無い、という申し出があった、と記録は書いています。

この山が医学校と病院を建てる土地と決まったのは、明治三年(1870年)の五月です。

明治六年(1873年)の四月、文部省は、この山での医学校の築造について、たびたび伺いを出してきたと書いています。

そして「旣すでニ四箇之教師館構造相成こうぞうあいなり」。すでに四つの教師館が建っていた、と。

文部省の年報は、その前の土地のことを書いています。

湿って汚れ、立て込んだ町の店に接していて、学校と病院には向かない、と。

同じ年報は、教師のことも書いています。

明治四年(1871年)の八月。

「孛國ふこく政府ニ囑しょくシ雇フ所ノ醫學教師」、プロイセンの政府に頼んで雇った医学の教師が着きました。

名は「ミユルレル」、そして「ホフマン」。講義が開かれ、解剖学が講じられました。

明治六年(1873年)の七月には、解剖学の教師「テニーツ」が、孛國から着いています。

これによって、解剖学の専門の科が開かれました。

ただ、どちらの記録も、この教師たちがどこに住んだかを書いていません。

大仏の下の教師館に誰が住んでいたのかも、書かれていません。

RECORDS ・ 記録の言葉

この話のもとになった記録の言葉です。ページは、その本に刷られたものです。

『文部省第一年報』明治六年分(明治8年刊、出版者の表示なし)一次史料

東京市編『東京市史稿 遊園篇第四』(東京市、昭和7年)

FOR GUIDES ・ ガイドのかたへ

PDF の後半 2 ページはガイド用です。読み上げる台本、語り方のコツ、事柄ごとに「どこまで言い切ってよいか」、記録の言葉と原本の切り出しが載っています。お客様用の面の裏に来ないよう、両面印刷で組んであります。

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