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No.71外国人共通上野公園

寛永寺の本坊跡は陸軍省が持ち、文部省がたびたび譲ってほしいと掛け合った

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INTRODUCTION ・ はじめのひとこと

お客様がいま立っているこの上野の山の中に、寛永寺の本坊の跡がありました。

明治のはじめ、その土地は陸軍省に渡されていて、文部省が、譲ってほしいとたびたび掛け合っていました。

学校を建てるのに、どうしても要る、というのです。

Here on this hill of Ueno, where you are standing, lay the site of the main hall of Kan'eiji temple.

In the early Meiji years, that land had been handed to the Army Ministry, and the Ministry of Education asked again and again to have it.

They needed it, they said, to build their schools.

文部省が政府に出した伺書うかがいしょは、こう書いています。

学制がくせい、学校の制度が出されてから、東京の一番中学の生徒をはじめ、学業が進み、専門の学科へ進もうとする者が次々に出てきた。

理科・法科・文科などの専門学校も、追々建てることになる。

明治五年(1872年)七月には、一番中学の教師たちが、駿河台するがだい一帯を渡してほしい、と申し出ていた。

けれども駿河台には屋敷が多く、たやすくは明け渡させられない。

そのうえ木がとても少なく、土地の質も十分でない。

しかも理学校は、医学と離れられない。上野の山に設けなければ、ほかに良い土地は見当たらない。

これまでに渡された場所だけでは、専門の学校は建てられない。

そこで、陸軍省に渡されていた本坊ほんぼうの跡を譲ってほしいと、たびたび掛け合ってきた。

けれども、どうしても納得してもらえず、やむなく今日まで待ってきた。

建てるのは、もう差し迫っている。この際、寛永寺の本坊跡もあわせて、文部省に渡してほしい、と。

RECORDS ・ 記録の言葉

この話のもとになった記録の言葉です。ページは、その本に刷られたものです。

東京市編『東京市史稿 遊園篇第四』(東京市、昭和7年)

FOR GUIDES ・ ガイドのかたへ

PDF の後半 2 ページはガイド用です。読み上げる台本、語り方のコツ、事柄ごとに「どこまで言い切ってよいか」、記録の言葉と原本の切り出しが載っています。お客様用の面の裏に来ないよう、両面印刷で組んであります。

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