ガイドネタ帳 › 場所から › 首都圏 › No.84 外国人共通

開拓使は北海道のアイヌの人々を東京へ召し出し、増上寺の末院まついんの清光院せいこういんに住まわせた

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はじめのひとこと

明治のはじめ、いま立っているこの増上寺ぞうじょうじの山内に、清光院せいこういんという末院まついんがありました。

開拓使の記録によれば、明治五年(1872年)、北海道のアイヌの人々が東京へ召し出され、この清光院に住まわされました。

記録によれば、若い人たちは開拓使の仮学校に通わされました。ほかの人たちは、渋谷と青山の官園かんえんで、木を植え家畜を飼う仕事を習わされています。

In the early years of Meiji, the grounds of Zojoji, where you are standing now, included a sub-temple called Seikoin.

According to the records of the Hokkaido Development Commission, in 1872, the fifth year of Meiji, Ainu people from Hokkaido were summoned to Tokyo and made to live in this Seikoin.

The young ones attended the Commission's temporary school, and the others were made to learn tree planting and stock raising at the government farms in Shibuya and Aoyama, the record says.

開拓使の記録『開拓使事業報告』は、その人数を男女二十七名と書いています。

研究者の廣瀬健一郎の論文は、この記事には誤りがある、としています。論文によれば、最初に清光院に住んだのは若い人たちで、ほかの人たちは官園かんえんに住みました。

人数は、記録と論文とで食い違っています。

論文は、開拓使が増上寺の末院まついんの清光院を買い上げ、そこへアイヌの人々を移した、とも書いています。

論文によれば、開拓使はアイヌの人々を和人風の名前で呼び、和服や洋服、帽子を身につけさせました。髭や入れ墨などの習わしは、強引に取り除いた、と論文は書いています。

清光院には医官が宿直していましたが、病気になる人が続き、官園の人たちも合わせて4名が亡くなった、と論文は書いています。

清光院を抜け出した人もいた、とも書いています。

開拓使の記録は、明治七年(1874年)七月に、生徒のうち、男女十三名を故郷へ帰した、と書いています。

記録の言葉

この話のもとになった記録の言葉です。ページは、その本に刷られたものです。

大蔵省『開拓使事業報告』第四編(大蔵省、明治18年)一次史料

  • 〔明治五年〕/○六月北海道土人男女二十七名ヲ召シ芝山内清光院ニ居ラシメ小壯ハ假學校ニ通學シ其他ハ澁谷青山兩官園ニ於テ樹藝牧畜ヲ習ハシム
  • 〔七年〕三月「アンチセル」滿期解雇○七月舊土人生徒中男女十三名ヲ歸鄕セシム

廣瀬健一郎「開拓使仮学校附属北海道土人教育所と開拓使官園へのアイヌの強制就学に関する研究」『北海道大學教育學部紀要』72号(北海道大学教育学部、1996年)

  • 開拓使は連行したアイヌをシャモ式の名前で呼称し/和服,洋服(背広の上下とワイシャツ,靴),帽子等の着用を強要した/開拓使は土人取締の監視の下にこのような習俗を強引に排除し,シャモの習俗を一方的に押し付けた。
    p.110
  • 北海道土人教育所の寄宿舎「清光院」には,医官が宿直している/罹病者は続出した。1872年10月13日1名が死亡/実に4名ものアイヌが死亡した。
    p.110
  • 1872年11月には,早くも清光院を脱出したアイヌがいる
    p.110
  • 『開拓使事業報告』第四編は「男女二七名ヲ召シ芝山内清光院ニ居ラシメ」と書いているが/この記事は間違っている。当初清光院に居住したのは「少壮」の25名だったのであり,その他は第三官園に居住したのである。
    p.111
  • 結局,増上寺の末院である清光院(現,清光寺)を買い上げ,8月25日,「元辞書掛」に居住していた26名は清光院に移ることになる
    p.99
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