ガイドネタ帳 › 場所から › 首都圏 › No.88 外国人共通

慶応四年、上野の戦いの日に料理屋の上の階へも大砲が引き上げられた

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はじめのひとこと

お客様がいま立っているこの上野の山は、慶応四年(1868年)五月、戦いの場になりました。

山に集まっていた彰義隊しょうぎたいを、官軍が攻めたのです。

その日、官軍は、料理屋の上の階にも大砲を引き上げた、と記録は書いています。

This hill of Ueno, where you are standing, became a battlefield in the fifth month of 1868, the fourth year of Keio.

The government forces attacked the Shogitai, a band of men who had gathered on the hill.

That day, a record says, the government forces even hauled cannons upstairs in restaurants.

『嘉永明治年間録』という記録によれば、前の日の夕方、彰義隊から、明日、官軍が攻めて来るという噂うわさが出ました。

老人や女性、子どもは立ち退くよう、近くの町々に太鼓を打って触れ回りました。

人々は荷物を運び出し、あたりは大混雑になった、と記録は書いています。

十五日の朝、官軍の分隊が方々から押し寄せました。

官軍は、湯島天神の山と、不忍池の向こうの榊原さかきばらの屋敷に大砲を据えました。

料理屋の松源まつげんと雁鍋がんなべの楼上ろうじょう、上の階にも、大砲を引き上げました。

やがて官軍の大軍が黒門くろもんの前に寄せ、山門や中堂ちゅうどう、多くの坊ぼうから煙と炎が立ち上りました。

その日のうちに、戦いはすっかり終わった、と記録は書いています。

『続武江年表』という別の記録は、夜になって山門などに「火を放つ」と書いています。

根本堂こんぽんどう、多宝塔たほうとう、鐘楼しょうろう、本坊ほんぼうなど多くの堂が、わずかの間に焼け失せました。

一方で、清水堂きよみずどう、時の鐘、大仏堂だいぶつどうなどは残った、と同じ記録は書いています。

記録の言葉

この話のもとになった記録の言葉です。ページは、その本に刷られたものです。

東京市編『東京市史稿 遊園篇第四』(東京市、昭和7年)

  • 五月十四日慶應四年。夕方東叡山ニ屯集致し居候彰義隊より明十五日官軍襲來の風聞有之候間、老人婦女子立退き候樣、近邊町々へ太皷を打ち觸廻り候ニ付人々騷立、荷物等持運ひ大混雜。
  • 翌十五日朝五時過官軍分隊ニて諸方より押寄せ、湯島天神山並ニ不忍池を隔てたる榊原の邸へ大砲相備へ、松源並雁鍋共ニ料理屋なり。の樓上へも大砲引上け
  • 夜に至り山門其外に火を放つが故、惜むへし、さしも甍を並へて壯麗たる根本堂・多寶塔・輪藏・鐘樓・常行堂・法華堂・文珠樓山門・御本坊・寺中は本覺院・凌雲院・寒松院・涼泉院・覺王院・顯明院・明教院等倶に舞馬の阨に罹り、片時の間に烏有となれり。淸水堂・山王社・時の鐘・慈眼堂・大佛堂・忍岡稻荷社・下寺等は殘る。
  • 八ツ時頃官軍の大兵黑門前ニ寄來り/其內山門中堂諸坊より煙焰盛ニ立昇り/七時頃ニ至り全く戰ひ終る
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