ガイドネタ帳 › 場所から › 首都圏 › No.92 外国人共通

上野の大仏堂は戦で焼け残ったが、明治九年に壊すと報じられた

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はじめのひとこと

お客様がいま立っているこの上野の山には、大仏をまつる大仏堂がありました。

山で戦いがあった夜、多くの堂が焼けたなかで、大仏堂は焼け残りました。

ところが明治九年(1876年)、新聞は、その大仏堂を近いうちに壊す、と伝えています。

On this hill of Ueno, where you are standing, there was once a Great Buddha Hall.

On the night of the fighting on the hill, many halls burned, but the Great Buddha Hall was left standing.

Yet in 1876, the ninth year of Meiji, a newspaper reported that the hall would soon be pulled down.

『続武江年表』は、上野での戦いの夜のことを書いています。

根本堂こんぽんどうや本坊ほんぼうなど、多くの堂が、わずかの間に焼け失せました。

そのなかで、清水堂、時の鐘、大仏堂などは残った、と。

明治二年(1869年)二月、大仏堂は清水堂などとともに、あらためて凌雲院りょううんいんに引き渡されました。

そのとき、「是迄之通諸人參詣不苦」、これまでどおり人々がお参りしてよい、と言い渡されています。

ところが明治九年八月二十八日、郵便報知新聞ゆうびんほうちしんぶんは、こう伝えます。

上野公園の西の方にある大仏堂は、近いうちに壊す。

唐銅からかねの仏像は「青天井の濕れ佛」、屋根の無い、雨に濡れる仏にする、と。

新聞が伝えたのは壊す予定で、実際にいつ壊したかは、この記事には書かれていません。

『東京市史稿』は、寛永寺にある古い写真に、大仏堂は「九年ヲ以テ撤ス」、九年に取り払った、と注を付けています。

いま寛永寺は、上野の大仏は寛永八年(1631年)に初めて建てられた、と書いています。

そして、関東大震災で首が落ち、第二次大戦のときに胴体を供出させられて、顔だけが残った、と伝えています。

記録の言葉

この話のもとになった記録の言葉です。ページは、その本に刷られたものです。

東京市編『東京市史稿 遊園篇第四』(東京市、昭和7年)

  • 夜に至り山門其外に火を放つが故、惜むへし、さしも甍を並へて壯麗たる根本堂・多寶塔・輪藏・鐘樓・常行堂・法華堂・文珠樓山門・御本坊・寺中は本覺院・凌雲院・寒松院・涼泉院・覺王院・顯明院・明教院等倶に舞馬の阨に罹り、片時の間に烏有となれり。淸水堂・山王社・時の鐘・慈眼堂・大佛堂・忍岡稻荷社・下寺等は殘る。
  • 九年八月廿八日/上野公園地內の西の方に在る大佛堂は不日毀ち、唐銅の佛像ハ青天井の濕れ佛にするといふ。
  • 一、兩大師一、大佛堂一、清水堂/御引渡被成下、是迄之通諸人參詣不苦/己巳二月十三日
  • 寛永寺中堂址及大佛堂/寛永寺所藏/明治初年內田九一撮影スル所歟、大佛堂ハ九年ヲ以テ撤ス。
    pp.22〜23 のあいだの図版原本の画像(国会図書館)

寛永寺「上野大仏(パゴダ)」(東叡山寛永寺公式ホームページ)

  • 寛永八年(1631)に初建された上野の大仏様は度々罹災(りさい)しましたが、その都度復興されています。
    「上野大仏(パゴダ)」本文(2026年9月29日閲覧)
  • しかし関東大震災によりお首が落ち、第二次大戦時には軍の供出令(きょうしゅつれい)により胴体を徴用されて、お顔のみが残されました。
    「上野大仏(パゴダ)」本文(2026年9月29日閲覧)
  • 大仏殿の跡地にはパゴダ(仏塔)が建立され、本尊として旧薬師堂本尊の薬師三尊像が祀られています。
    「上野大仏(パゴダ)」本文(2026年9月29日閲覧)
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