ガイドネタ帳 › 場所から › 首都圏 › No.93 外国人共通

東京府は、公園の布告を挙げて、陸軍への即答を断った

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はじめのひとこと

お客様がいま立っているこの上野の山で、明治のはじめ、陸軍省は土地を広げようとしていました。

明治六年(1873年)の一月、東京府は、その求めにすぐには答えられない、と返しています。

そのとき挙げたのが、公園の布告でした。

Here on this hill of Ueno, where you are standing, the Army Ministry was trying to take in more land in the early Meiji years.

In the first month of 1873, the sixth year of Meiji, the Tokyo prefecture replied that it could not answer that request right away.

The reason it gave included an order about public parks.

始まりは、徳川家が陸軍省に差し出した土地の、図面の食い違いでした。

壬申じんしん(1872年)の十一月二十八日、陸軍大輔りくぐんたいふの山県は、東京府に書き送ります。

図面の食い違いは、徳川の家令かれいたちの手落ちだった。

そのうち明王院みょうおういんの門前の土地は、陸軍省にどうしても要る場所なので、引き渡してほしい、と。

徳川家の家令の代わりの者も、東京府に届け出ています。

その土地は府の持ち地だったのに、調べずに引き渡してしまった。

掛かりの者が調べなかったための行き違いだ、と。

年が明けた明治六年(1873年)一月十八日、陸軍省は「于今いまに何等御回答無之」、いまだに何の返事も無い、と催促します。

翌十九日、東京府はこう答えました。

「第十六號御布告公園之見込も有之、旁かたがた御即答いたし兼候」。

第十六号の御布告の、公園の見込みもあることなどから、すぐには答えかねる、という意味です。

その御布告がどれなのか、この書面は日付も題も書いていません。

明王院の門前の土地がそのあとどうなったかも、この一連の書面には書かれていません。

記録の言葉

この話のもとになった記録の言葉です。ページは、その本に刷られたものです。

東京市編『東京市史稿 遊園篇第四』(東京市、昭和7年)

  • 家令共粗漏之段、別紙之通申出候ニ付御廻申候。/且右相違地所之內、明王院門前地之儀ハ當省必用之地處ニ付御引渡相成度/壬申十一月廿八日
  • 明王院門前地之儀ハ、當省必用ニ付御差支無之候ハヽ御引渡相成度旨、舊冬十一月廿八日圖面相添及御掛合處、于今何等御回答無之、右ハ差急候際付、早々何分之御答有之度、此段及御催促候也。/明治六年一月十八日
  • 右地先キ明王院門前地所之義ハ御府御持地之處、其節陸軍省ヨリ御下ケ相成候繪圖面朱引之內ニ有之候趣、不取調ニテ御引渡仕候/右ハ全ク懸リ之者不取調ヨリ行違相成候段申上
  • 上野山內御省御用地續御圍込之義ニ付、再應御掛合之趣致承知候。然ルニ同所之義ニ付テハ、第十六號御布告公園之見込も有之、旁御即答いたし兼候間、左樣御承知有之度、此段及御答候也。/明治六年一月十九日
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